昨日は、旦那と、旦那のお友達につれられて、舞踏を見てきました。
普段、ほっとくとサルサの事しか考えてない私。
そんな私に旦那は、知らぬ間に・解りやすく・物を考える為のきっかけを与えてくれる人で、年末恐ろしいスピードで読んだパウロ コエーリョ著の「アルケミスト」に、それを読み終えた直後辺りに誘われた映画はミラー・ナーイル監督の「その名にちなんで」
どれも私には新鮮で、新鮮で新鮮で、それでいてやはり、自分が自分でいれる事への感謝の気持ちを、改めて思い出させて(?・・深く深く再確認 と言う言葉が相応しいかも)くれるような、作品だった。
今回もまた、新鮮なそよ風が私の心の中を駆け抜けるのかな
そんな、そうあってほしくないような、そうでいてほしいような、絶妙なドキドキ感をくれる旦那の誘いは、これから一生、出来る事であれば全て受け止めたいと思っているのでした。
そんなドキドキを抱えて、今回の会場へ。
「舞踏」と言うと、伝わり辛いかな?コンテンポラリーダンスと言えば良い?(厳密に言うと舞踏とコンテンポラリーダンスは別物らしいのだけど、たぶん発展の段階で、一時同一線上にいたのでは?と勝手に思っています。だから一緒に使っちゃいます。超ド素人な使い方かもしれないけれど許して!!)
私は今まで山海塾系の暗黒舞踏ものしか見た事が無くて、そしてかつてコンテンポラリー・ジャズはレッスンで受けていたけれども、なかなかその世界にドップリつかって・・・と言う事は無かったのですね。
だから、「ここからここまでが『舞踏』というもののカテゴリーの中に入ります」と言う事が上手く言ません、、申し訳ない。。(一般的に、剃髪で白塗りで、ツンだけ履いててほぼ裸!ってイメージがあるかもしれないけれど、最近のはそれでだけじゃないみたいですよ)
今回行った先は Die Platze というちゃんとした劇場なのだけれど、真っ暗い、狭い箱。独特の臭いと、独特の照明が、大学の頃に芸術祭で、自分達でフラメンコを踊るステージを作った事を思い出させました。
100人近い人がひな壇になって、一点その人だけを 息を呑みながら見つめている空間で 「 踊る 」 。
あぁ・・
そこにどれだけの責任感と、どれだけの覚悟と、どれだけの重みがあるのだろう。
どんな危機感をもって舞台に挑んでいるんだろう?
どれだけものを考えているんだろう?
フィールドが違えど、「舞台」という意味では同じ場所に立つ私。そして、自分の生徒さん達をそこに立たせてあげる事がお仕事な私。
ここへ来て、色々な経験が功を奏し始めて?舞台に出る事も舞台を作る事も少しなれて来て、色んな人に満足してもらえる度合いが高くなって来ているような、ことダンスに関してではないけれど、様々な意味で自分への成長を感じて、「私はこういう自分になりたかった」「今それに近づけている気がするんだ」なんて、無邪気に思ってしまったりしているけれど、
覚悟が違うんだよ覚悟が。
そう突きつけられたような気がしました。
「成長」って何でしょうね?
なれていく事で失うもの。→臨場感。リアル。
そんなのいやだなぁ。。。
真剣勝負している「つもり」なんて、お話にもならない。それは成長じゃなくてまやかしだよね。嘘のつき方ばかりを覚えても、それは自分の知っている「誰か」の真似であって、少しも自分にしっくり来ないのでは?
後になって気がつくとか、ぽっかり穴が、とか、嫌だよ私!!!
自分が嘘ばかりついているとは少しも思わないし、毎回できる限りのベストを尽くそうとはしているけれど、悪い意味で盲目を許している自分が、何処かにいるかもしれないと、
それを否定しきれない自分がここにいるのが、
すごく嫌でした。
ちきしょうめ。
なので、そこで見た作品の好き嫌いは別として、
「良かった、今回ここへ来て。」
素直にそう思いました。
やべーやべー。
このまま、気がつかないまま、盲目星人になったら。。。それはそれで幸せなのか(? 苦笑)でもそんなの まじポンで嫌だぞオイラ。
針の穴みたいな小さくしかその先見えていなくても、目をそらしちゃいけないんだよね。そうなのそうなの。大学で習ってたよ。今考えればみんないい先生だったんだなぁ〜(思考回路脱線気味だし今更だし。わけわかんねー)
そして、またまたぶっ飛んだ事に、とある感情を思い出しました。